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デュアル・リアル・ライフ

Solo show

11月 19日 (木) -12月30日(木)  令和三年

MAIA Contemporary

Colima 159, Roma Norte  Mexico City

私の写真作品が初めて公けの場で発表されたのは2年前のこと。それが思ってもみなかった渦巻く展開の始まりだった。それらの写真はいわば私自身の鏡像だった。写真という分野において、あらゆるカテゴリーから逸脱し、それらの合間を行き来するように従来の分類体系から外れている。珍虫に対するのと似た関心や好奇心を引いたのも当然のことだった。それは結局のところ私自身を物語っていた。私に出会った人は誰でもある特定の疑問を抱く。そして、その答えを究明しようと試みる。「私という人物がどこから来たのか、誰なのか」。私が「メキシコで生まれ、メキシコで育ったメキシコ人だ」とどれだけ主張しても、常に私の中には私自身の親しい分身として「ジャパニーズ・フォトグラフィー(日本写真)」の存在があった。

そして、自分が撮る写真も同じだと思った。私の作品は写真のどんなジャンルにも当てはまらない。デッドパンでもなければポートレートでもない。シンディー・シャーマンのようにポストモダニズム的解釈を迫るようなモンタージュでもない。深瀬昌久のような不気味さもなければ、川内凛子のような詩的ミニマリズムでもない。私の写真は、いわば特殊な世界を写した絵葉書だ。つい最近まで、その世界の住人は私だけだと思っていた。なぜならそれは唯一私にとってのみ存在する現実で、現実にはあり得ない世界だったから。その世界でメキシコと日本は、地球の反対側にある二国ではなく、たった一つの精神空間に共存する唯一無二のハイブリッドな現実だ。

 

これらの写真を公開したことで、私は一つの揺るぎない確信に至った。その世界の住民は私だけではないということ。そして何よりも、同じくその世界で一人ぼっちだと思っている人が私以外にもいること。この2年間、一人そしてまた一人と、沢山の人々が「こんなに一つのイメージに共感できたことはない。これほどまでメキシコ的で、同時に日本的なイメージは見たことがない」というメッセージをくれた。メキシコに魅せられメキシコ風に振る舞おうとする日本人がいる一方で、日本文化に浸り日本色に染まった生活を送るメキシコ人達がいる。彼等の多くが、彼等自身がそうあるように、「これほどまでに同時に両方であり得るイメージを見たことがない。鏡の中に自分自身の姿を初めて認めた時のような、一種の深いエピファニーの感覚を享受した」と語ってくれた。

 

まるで魔法の鏡のように特殊な世界を写し出す絵葉書たちの中で、私達は、あらゆる「分類化」を拒み続ける珍虫のような自分達の姿を確認する。これらの写真は、その異世界が決してスキゾフレニアなどではなく、他にもあらゆる生き方の可能性が存在することを証明している。

 

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